多田羅迪夫紹介ブログ

多田羅迪夫紹介ブログ2022〜

ドイツ・リートの魅力 

昨日は十三夜の月が夜空に輝いて美しかったですね。

朝晩の風が秋の気配を感じさせる頃となりました。

今日はドイツ・ドイツ・リートのお話です。

 

個人の感情の表出 

聴き流すことのできない音楽

素朴で親しみやすく同じメロディーに沢山の歌詞がついている有節歌曲の民謡の時代から、

18世紀後半、それまでの形式を脱ぎ捨てるドイツの革新的な文学運動「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)」が起こりました。ゲーテが、心の葛藤や心情を告白する『若きウェルテルの悩み』を発表すると、詩人たちはそれまでの古典芸術の形式や啓蒙精神を越えて、自分たちの詩作に自らの人生観や哲学を投影してゆくようになってゆきます。以後、ドイツ・ロマン派の詩人たちに共鳴するロマン的思考を持った作曲家たちが現れ、「芸術歌曲」の形態が出来上がっていったのです。

王侯貴族の晩餐のBGMとして奏でられていた「美しい音楽」や、「‘民衆とはこうあるべきだ’といった啓蒙音楽」と異なり、形式から個人の感情の表出へと向かい合う、聴き流すことの出来ない音楽が出現してゆきます。

連作歌曲集では、シューベルト『冬の旅』『美しき水車小屋の娘』やシューマン『詩人の恋』が特に有名であり、これらの作品にはストーリー性があります。

 

その魅力もさることながら、私が演奏者として深く惹かれるものに、物語性とは別の作品群があります。

シューマン1840年に作曲した『リーダークライス 作品39』 は、ロマン派の詩人アイヒェンドルフの詩によるもので、第1曲〈異郷にて〉にはじまる12曲から成ります。アイヒェンドルフの名が‘樫の村’という意味なのは偶然ですが、作品全体にドイツの黒い森シュヴァルツヴァルト)」の雰囲気が漂い、ワーグナーニーベルングの指環(さすらい人 / ヴォータン)のようなイメージが共有性を持って、通奏低音のように流れているのです。

 

自己完結しない「個との対話」

私が16歳の頃、最初に聴いたドイツ・リートは、シューベルト作曲・ゲーテの詩「魔王」シューマン作曲・ハイネの詩「二人の擲弾兵」で、ドーナツ盤のレコードの表裏に、ドイツ歌曲の代表的な二つのバラード(物語詩)をカップリングしたものでした。

フィッシャー=ディースカウの美声と音楽的表現力に魅了され、東京藝術大学の学部生時代はドイツ・リートばかり歌っていたものです。

燦燦と陽の光が降り注ぐ瀬戸内で、『サウンド・オブ・ミュージック』さながら、家族そろって唱歌を斉唱する、のどかな少年時代を過ごした私にとって、思春期に出逢ったドイツ・リートの世界は、晴朗な現実世界と対極にあり、初めて体験した「個との対話」でありました。

特に妖精や魔女が潜む、迷い込んだら逃れられない魔力を持った、陰影を湛えた深い森は、哀愁とともに複雑な心の綾を織りなし、人智を超えた畏敬の世界へと精神を誘うかのようです。  

面白い事に、自己と深く向かい合う音楽行為が加速すると、自身の魂に、瞑想とは別の治癒がもたらされ、さらには、外へと向かって他者と共有し分かち合いたいという衝動が湧きおこってくるのです。芸術とは決して自己完結しないことを実感する瞬間であり、ドイツ・リートの演奏に没頭していると「mortal(死を免れ得ない存在)」である人間の在り方についての答えさえもが隠されているような気さえするのです。

                                

CD 多田羅迪夫奏楽堂ライヴ ドイツ歌曲の夕べ

ベートーヴェン: 歌曲集「遙かなる恋人に寄す」 (全6曲)

シューマン: リーダー・クライス Op.39 (全12曲)

ブラームス: エーオルスのハープに寄せて

ブラームス: セレナーデ

ブラームス: われらはさまよい歩いた

ブラームス: 甲斐無きセレナーデ

ブラームス: 使い

ブラームス: 風もそよがぬ、和やかな大気

ブラームス: 歌曲集「四つの厳粛な歌」 作品121

 

Disc Classica DCJA-21008

http://www.disc-classica.jp/lineup/tatara_michio.html

 

故岩下 眞好(いわした まさよし 1950年 - 2016年12月15日)氏・ドイツ文学者、音楽評論家による紹介文

この歌を、さあ受け取って下さい――新奏楽堂ライヴに聴く多田羅迪夫さんの魅力

 岩下眞好

 音楽が聴き手の心を強く動かすのは、その音楽が演奏家の心から発しているときだ。2007年9月18日、東京藝術大学新奏楽堂で行われた多田羅迪夫さんのリーダー・アーベントを聴いて念頭に浮かんだのは、ベートーヴェンが「心より心へ」と言いあらわした、あの永遠の真理だ。一曲一曲から、そしてプログラムの全体から、音楽への、そして人生への、多田羅さんの深い思いがひしひしと伝わってきた。

 

 この感興豊かな歌の夕べを冒頭の1曲とアンコールとを除いてほぼ完全に収録した当CDからも、それは、はっきりと伝わってくる。じっくりと耳を傾けて、それを感じ取っていただければもう充分なのだが、それでは役目が務まらないので、あの晩の演奏を当CDで振り返りつつ、僭越ながらも多田羅さんの思いを探って言葉にしてみようと思う。

 ベートーヴェンの《遥かなる恋人に寄す》は「憧れ」Sehnsuchtがテーマの歌曲集だ。丘の上に座って遠く離れた恋人に思いを馳せる第1曲で、自分の憧れの眼差しを恋人が見ることができないと嘆く第3連の「ああ、あなたはこの眼差しを見ることはできない」という詩句に、多田羅さんは、ほんの少しだけ感情の動きをこめる。憧れからは焦燥と苦悩も生まれるのだ。ロマン的心情が仄かに発露する瞬間だ。ここにきざした感情は愛の成就への確信と交錯しながら、終曲の第4連の「ただ憧れだけをはっきり自覚して歌を歌うなら」という、すべてを歌に託す決意に到達する。ここで「自覚して」bewußtという語が強調されるのは含意に満ちている。つねに憧れだけを身に覚えて歌を歌えば、愛し合う心はひとつになれる。そして憧れこそ、そうした歌の原動力にほかならないのだ。

 

 続くシューマンでは多田羅さんは、作品39の《リーダークライス》を取り上げている。ドイツ・ロマン派の詩人アイヒェンドルフの詩によるこの歌曲集は、故郷を喪失した孤独者のさすらい、森や古城、月明かりの夜、憂愁と春の夜の陶酔を歌う。多田羅さんの歌は、そうしたロマン的な風景と感情を、きめ細かく陰影豊かに描き出している。詩のコンテクストの知的把握と個々の言葉の意味への繊細な反応は、ここでも目を見張るものがある。一例だけにとどめよう。第10曲「薄明かり」である。表情豊かなピアノの前奏に続いて――鈴木真理子さんのピアノがじつに素晴らしい――美しいディクションで、言葉のひとつひとつを噛み締めるように、黄昏の薄明のなかで孤独な胸中に浮かぶ暗い想念が歌い込まれてゆく。このとき多田羅さんの美声が帯びる翳りも、また魅惑的だ。詩のなかには「死」という言葉は一度も出てこないのだが、歌を聴くうちに、黄昏とともに迫り来たものが、ほかならぬ死の影だったことがわかる。そうか、ここで歌われている「友」とは「友ハイン」、つまり「死神」のことだったのでは、と想像が羽ばたきもする。

 

 休憩をはさんで、コンサートの後半に置かれたのがブラームスだった。最初は歌曲選。ブラームスの歌曲は、みずみずしいロマン的感情に満たされているが、音楽も選ばれている詩の内容も、或る種の抑制のきいた奥ゆかしさがある。その滋味を豊かに表現するためには年輪を刻むことが必要だ。多田羅さんは、おそらく、ようやく機が熟したと考えられたのだろう。

 

たとえば、6曲中の第2曲目の《セレナーデ》は、詩をよく読んでみると、じつは単純な求愛の歌ではなく、青春の只中にいる若い恋人たちの姿を眺める傍観者の視点からの観察が歌われている。月夜の恋人たちの快活なロマン的情景に、このユーモアとペーソスの隠し味までをも加えるには、どうしても多田羅さんの芳醇なバリトンによる円熟した表現が必要だ。ブラームスの作品中でも最も美しい愛の歌のひとつである《使い》でも、隠し味は忘れられていない。風に使いを託しつつ愛の確信を反芻する胸に、だがどうしても芽生える不安のあらわれである「もしかして」vielleichtの一語が、なんと絶妙に歌われていることか。《甲斐なきセレナード》の語り上手も聴きものだ。

 

そして、プログラムの最後に置かれた《4つの厳粛な歌》が、この晩を千金の値あるものとした。死すべき存在である人間の悲しい宿命を歌い綴る作品を、多田羅さんは全身全霊を傾けて歌い上げている。《遥かなる恋人に寄す》で憧れに打ち震える初々しい恋愛感情と触れあい、《リーダクライス》で愛と死の暗示と象徴に満ちたロマン的世界を逍遥したあと、ブラームスの歌曲で様々なかたちの愛への洞察を深め、《4つの厳粛な歌》の初めの3曲で死と正面から向かい合う。だが、最後に、多田羅さんがブラームスに共感を寄せつつ高らかに讃えるのは「愛」Liebeである。「いつまでも存続するものは信仰と希望と愛・・・しかし愛こそは最も偉大なもの」と歌う第4曲の終結部は万感の思いが込められた絶唱だ。憧れから愛へと導かれ、苦悩と死を見つめ、ふたたび愛の確信へ。ここに、このリーダー・アーベントに託す多田羅さんの思いは完結する。これらの演奏が聴き手の心を動かさぬはずはない。