多田羅迪夫紹介ブログ

多田羅迪夫紹介ブログ2022〜

私のWagner体験 

私がワーグナーを舞台で歌った最初の経験は、1970年代に遡ります。
8年半をヨーロッパで暮らし、その間にゲルゼンキルヒェン市立劇場で『タンホイザー』ビーテロルフや『マイスタージンガー』の親方歌手の一人銅細工師のフォルツに出演しました。『タンホイザー』の演奏時間が約3時間10分、『マイスタージンガー』は4時間半の大作ですから、主役のタンホイザーやハンス・ザックスや騎士ヴァルター・フォン・シュトルツィングが、時には激しく息を切らせながら歌い続ける姿に「ワーグナーはまさに声の持久力と身体の体力勝負だなぁ」と痛感したものでした。
しかも延々と歌唱部分が続く役の音楽と歌詞を体躯に深く覚えこませるのは、並大抵の準備では習得することが出来ません。

通常のオペラの準備には半年もあれば充分なのですが、ハンス・ザックスのような役の準備期間は、ネイティヴでさえ2年は掛けなければならないと言われていましたから、自分には到底不可能な役と決め込んでいました。

私がドイツから1981年に日本に完全帰国すると、83年若杉弘指揮・二期会ジークフリート』アルベリッヒ役に続き、84年から87年にかけては新日本フィル朝比奈隆指揮で臨んだ《ニーベルングの指環》『ラインの黄金』アルベリッヒ役、『神々の黄昏』ハーゲン役等のワーグナー作品を歌う機会を次々と頂きました。

性格的な表現が必要なだけでなく、一つの母音に3つの子音を発しなければならない言葉が多いドイツ語の子音さばきが難しいですし、時には巨大な音量となるオーケストラに負けない声量をも持ち合わせていなければならないのですから、大変苦労しました。

その後、92年小澤征爾指揮のヘネシー・オペラシリーズで《さまよえるオランダ人》オランダ人役をホセ・ファン・ダムとのダブルキャストで歌い、96年大野和士指揮《ワルキューレ》のヴォータン等を経て、徐々にへルデン・バリトンの役へと移行してゆきました。

そうするうち、二期会がベルギー王立モネ劇場と提携した《ニュルンベルクのマイスタージンガー》で、ついにハンス・ザックスを歌う機会を得ました。

事前に想像した通り、大変な量の暗譜の量と声のスタミナをいかに確保するかの苦労はありましたが、歌い終えた時の充実感はえもいわれぬものがあり、満席のお客様と携わったプロダクションへの責任を無事に果たせた安堵とともに、それまでの苦労を吹き飛ばす、最高の喜びを与えてくれました。

第3幕、ヨハネ祭が行われるペグニッツ河畔の野原に民衆が大勢集まり、マイスタージンガー達の入場の最後にザックスが現れると、民衆は起立して「目覚めよ、朝は近づいた」のコラール(歌詞は史実のハンス・ザックスの《ヴィッテンベルクの鶯》に基づく)を合唱して称える時、J.S.バッハカンタータ第140番《目覚めよと呼ぶ声あり》を連想しながら、その音楽に感動しましたし、ザックスの「友よ、楽しき青春の日に、こよなく幸せな初恋の衝動の中で、美しい春の歌を歌うことは誰にもたやすい。しかし夏、秋、冬の風雪を耐え、それでも尚、美しい歌を創るものこそがマイスターなのだ」という歌詞には、巨匠ワーグナーの情熱と理想が感じられ、その歌詞に感動しながら歌いました。この体験は素晴らしい思い出として今も記憶に残っています。

ワーグナー楽劇の大きな特徴は、作曲家自身がその台本を書いたことです。
他の作曲家が台本作家に韻を整える作業を依頼しなければならないのがほとんどだったことを考えると、その偉才ぶりがよくわかりますし、彼の台本は、登場人物の心理描写と劇的な構成に大きな力を発揮しています。
より演劇性の高い表現として「言葉を語って聞かせる」事が重要であり、《ワルキューレ》第2幕2場でのヴォータンの長い独り語りはその好例なのですが、声をひそめて苦悩を「語る」と思えば、怒りや嘆きの表現には言葉の明瞭度と共に大きな声量を要求されます。
つまり、「声の変化」の要求にどう応えるかが、実はワーグナー作品を歌う際の本当の難しさなのだと思います。
 
Den lieb ich der Unmägliches begehrt.
不可能を欲する人間を私は愛する
ゲーテファウスト』より
 
人間というものはいつの時代もそうしたものなのでしょう。

          photo by K.Miura

※(Wagnerは原語読みするとヴァーグナー、Walküreはヴァルキューレが近いのですが、文中ではワーグナーワルキューレと書きます)