多田羅迪夫紹介ブログ

多田羅迪夫紹介ブログ2022〜

半世紀以上も前のお話 日本の音楽界の足跡

1971年「こんにゃく座」創立当初に創立メンバーが費用を出し合って購入したバスに乗って。

屋根の一番上の左側の長髪が24歳の頃の多田羅迪夫

声楽家として紹介される時、ドイツオペラや宗教曲のエキスパートと紹介される事が多いのですが、渡欧前、大学院を卒業した後の時期、私がこんにゃく座の創立メンバーだったことは、あまりお話する機会がありませんでした。

日本の音楽界、そして自身の音楽家としての日々を模索した若き時代のことを少し振り返ってみます。

藝大時代、僕は無用な緊張を解して必要な筋肉を使うそのメソッドにとても意義を感じていて、レポートにもその事を書き、そのまま終わるのは勿体ないと言ったら、同級生と先輩たちとで、授業でなくクラブ活動のようなものでやりませんかという呼びかけがあって、土曜日の午後に宮川睦子先生の指導のもとに非公式なゼミとして体操をやっていたんです。

身体の柔軟さを持って、自分の身体の個々のパーツがどのように動き、余計な緊張無しで、正しい動きが出来るということを目指すこと。それが演奏家にとって、演技者にとってとても重要なことだという事に気付いた学生たちが、20人位だったのが、やがて60人以上の数になって、継続してやっているうちに合宿をやろうということになり、集団の演技、オペラ歌手のタマゴたちにとって実践的な課題も出されるようになって、すっかり演技者としての基本的なことにのめり込み始めました。

宮川先生は文学座という劇団の身体訓練の先生もなさっていましたが、その体験はその後の演奏活動においてもずっと役立っていて、宮川先生にはとても感謝しています。

そして、僕が19歳の時には、大学外で合宿をしながらやるようになって、僕の上級生の藤本高茂さんが文学座の研修所に入って、新しい小劇場を作ることを呼びかけました。

僕が大学院のオペラ科を二年で修了したあかつきに旗揚げするぞ!ということになって、ソプラノ2人、メゾソプラノ2人、テノール2人、バリトン3人の計9人が創立メンバーです。

当時は「オペラ小劇場こんにゃく座」と名乗っていました。

明瞭な日本語歌唱、演技力、そして西欧を本場として真似るのでなく、日本の音楽家が邦人であることのアイデンティティーを意識することの大切さを感じていました。

もともとドイツリートに傾倒する一方で、僕は邦人作品にも興味がありました。ですから藝大のオペラ科の修了作品として選んだのは、清水 脩作曲『俊寛』でした。プライベートで「宝生流」の仕舞や能を習ったりもしていましたね。

ずっと先に帰国してその役を実際、演じる機会が巡ってくるとは、そのときはまだ思っていませんでした。

ともあれ、大学院の修士課程を修了したその4月から稽古も開始して、実際に出し物を自分たちで作って、売りに行くことになり、その前に出し物をちゃんと作ること。それを全国の学校に持ってゆくことを考えていました。

その頃、ある主義を持った人たちが何か組織を作ったり拡大する時に、「オルグ」するって言っていたんだけれど、それは、organizeの略から来た言葉なのでしょう。

その創立メンバーたちが連名でお金を銀行から借り、それを大型バスの購入費とバスの改造費に当てた。バスの屋根の上には平台を作り、照明道具も中に積み込み、クッションを敷いて壊れないようにし、バスの背中の部分にベニヤ板を敷いて、荷物置きのところからロープを垂らして落ちないようにしていた。バスの運転手さんを雇って寝袋を持って全国の学校に移動していたんです。

全国の学校に売り込みに行くということで、営業も我々(藝大生や大学院修了生)がやっていて、僕は足立区の担当。写真を持って、プログラムを印刷した状態にして廻っていました。僕は名古屋の方にも営業に行き、学校名簿を頼りに名古屋に行ったときに、前もって電話してアポイントメントをとってね。沢山仕事を取ってきて驚かれました。

林光さん作曲の「あまんじゃくとうりこひめ」を出し物としようということで、上演の目途がついた時、こうした活動をはじめようとしているので、上演の許可を頂きたいと林光さんのところへ藤本さんと僕と4人くらいでお願いに行きました。その後、林光さんは、こんにゃく座の座付作曲家になってゆかれるのです。

プログラムの前半は「線路は続くよどこまでも」「サンタルチア」「オーソレ・ミオ」とか 小中学校の教科書に載っていたような曲を。高校生向けだと「菩提樹」を歌ったり、オペラアリアを歌ったり。

オペラ作品としては、石桁真礼生作曲『河童譚』や林光作曲『あまんじゃくとうりこ姫』を演っていました。『河童譚』は民謡による四重唱曲として書かれた短い作品でしたから、『河童譚』と歌曲の後に休憩を入れて『あまんじゃくとうりこひめ』を上演しました。

学校に営業に行くとまず「体育館しか場所はないけれどいいですか」って言われるんだけど、会場の設営も照明も道具も衣裳も全部、私たちが持ち込んでやりますからって言ってね。会場は大抵、体育館だから、会場の窓ガラスに黒いカーテンで覆ってという作業をした。日本のオペラを作っていくということに共感してくれる人たちが大勢いたし、当時の学校の先生たちは、日本のオペラを創っていこうという僕たちの気概を聞いて、意気に感じてくれたのだろうと思います。オペラ小屋という写真集になったりもしました。

翌年あたりから、藝大以外からも活動に賛同する桐朋学園演劇科出身の佐山陽規(はるき)さんなども加わり、彼はその後、『レ・ミゼラブル』のジャヴェール警部をはじめとして、ミュージカルの世界へ羽ばたいてゆきました。 

僕は1年と3カ月くらい活動していて、石桁真礼生『河童譚』の河童の河太郎や『あまんじゃくとうりこひめ』のじっさを演じていました。

こんにゃく座の活動が軌道に乗ってきた時期で、その後、オペラの出し物として、林光作曲『おこんじょうるり』、間宮芳生作曲『昔噺 人買太郎兵衛』などが演目としてかかったけれど、『人買太郎兵衛』が出し物として定着する前の時代。悩んだ末に、日本を離れることにしました。

まだ林光さんが音楽監督、座付作曲家になる前で、レパートリー不足に危機感を感じていたことや、最も大きな理由は、当時の自分のオペラ歌手としての技術的な基本的なことをもう一度見直したいという意識が強かったというのが一番大きな理由でした。

ドイツリートを極めたいとドイツへ行くはずが、二期会の創立メンバーで総監督だった故中山悌一先生に、まずは多くの国際的名歌手を育てたカンポガリアーニ氏(Ettore Campogalliani)に就いたらとの勧められ、73年にドイツではなく、ミラノに留学しその後、ドイツの歌劇場の専属歌手への道を歩んだのでしたが、1973年から81年までを海外で過ごすことになるのです。